美術を通して、これからの時代を生き抜く力を磨く!
美術工芸科
〒604-0902 京都市中京区土手町通竹屋町下る鉾田町542[MAPを見る]
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7月1日,今日は,本校の創立記念日です。
1880年(明治13年)7月1日,京都御苑内に「京都府画学校」として創立され,開校式が挙行されました。
それまでの時代,画家になるためには,まず師匠に弟子入りし,長い年月修行をして師匠の描き方を習得しなければならず,他の流派の描き方を学ぶことはできませんでした。画学校では,様々な先生から絵を学ぶことができ,徒弟制度によらず学校に通うことで画家になる道が開けたことは画期的なことでした。画学校設立のきっかけになったのは,1878年(明治11年)に南画家の田野村直入が,京都府知事の槇村正直に学校設立の建議書を出し,続いて四条派の画家の幸野楳嶺が望月玉泉らとともに建議書を提出したことによります。発足当時の画学校は校長(摂理)が田能村直入,望月玉泉,小山三造,谷口藹山,鈴木百年,幸野楳嶺が教員となりました。
その後校舎として使っていたお里御殿が破損したため,河原町の織殿(現在の日本銀行京都支店)に移転しました。学校は,それ以後も上京区川端通荒神口上ル,現在の第四錦林小学校の場所,大正時代になって東山区今熊野日吉町に移転しました。校名は,京都市画学校,京都市美術工芸学校と変わり,1901年(明治34年)からは京都市立美術工芸学校となりました。1911年(明治44年)には絵画専門学校が創立され,両校は兄弟校として発展していきました。絵画専門学校が現在の京都市立芸術大学となります。
戦後,一時期京都市立美術高等学校となりましたが,1949年(昭和24年),総合制の下で,京都市立日吉ヶ丘高等学校に普通課程・商業課程・美術課程として引き継がれました。その後,美術課程を単独の専門高校として独立させてほしいという要望が出され,約10年余りの議論・検討の末,創立100周年にあたる1980年(昭和55年),銅駝中学校が統廃合された跡地である現校地に京都市立銅駝美術工芸高等学校という校名で美術専門高校として独立しました。それから40年,昭和初期の建築物であるこの趣のある校舎と,実習棟,記念棟(記念棟は創立110周年を記念して建てられました)で,多くの生徒が学び,卒業していきました。
歴史と伝統のある学校は,ただ単に最初のものを守り続けてきたから今も存続しているのではなく,教育の根幹にかかわるところをゆるがせにせず,一方で常にそれぞれの時代の状況をよくとらえその先を見つめながら,改革や新しい挑戦をしてきたからこそ,今に至っているのだと思います。
2023年には,京都駅東部崇仁地域に新築移転し新しいステージが始まります。本校は,未来に向けて「希望を創る」学校として,10代後半の青年が伸び伸びと広く深く学び,自己の可能性を広げられる教育活動を続けていきたいと考えています。
創立記念日の今日,今一度,本校の歩んできた道のりを振り返り,これからの学校の未来に期待し,日々の教育活動を大切にしていく気持ちを新たにしたいと思います。
現在,本校玄関の陳列ケースには,創立記念日に関連して,画学校初代校長の田能村直入作「十六羅漢図帖(部分)」が展示されています。この作品は,銅駝美術工芸高等学校として現校地に独立開校した際,田能村直入のご遺族から寄贈を受け本校収蔵庫に保管しているものです。
※写真
上 『創立百二十周年記念美工沿革史』
中 『京都府画学校計画図』(鈴木松年筆)
(創立百二十周年記念史・京都市芸術大学百年史)
2023年,新築移転・完成予想図
下 玄関陳列ケース「十六羅漢図帖(部分)」