美術を通して、これからの時代を生き抜く力を磨く!
美術工芸科
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カラダの話
2018年を迎えました。皆さんどんな思いで新年を迎えたでしょうか。
昨年、1年生は高校受験で見事合格を手にし、銅駝での生活が始まりました。新鮮で、発見や面白さのある毎日、しかし一方で戸惑いや新しい悩みも生じてきたことでしょう。2年生は、専攻の授業が始まり、美術専門高校ならではの制作活動に意欲的に取り組みつつ、進路目標を探るという大きな課題に向き合ってきました。3年生は、高校での集大成として卒業制作に取り組みながら、進路実現に向けて自分なりの挑戦をしてきたことと思います。
大晦日の夜、いつもより長めに湯船につかりながら様々な思いに浸っていました。一年を振り返りながら、普段思いをかけない自分のカラダについて考えてみました。私の「足」や「手」、「眼」や「耳」、そして「口」や「鼻」もよく“はたらき”ました。「足」は毎日の通勤だけでなく、教室や実習室に、皆さんが活動する校外の場所へ、そして市内各所、他府県、外国へも行きました。「手」は、書類や筆記具、スマートフォンだけでなく、本を手にしたり、握手をしたり、樹や花、動物に触れたり。「眼」は、皆さんの日常の姿を、作品を、そして多くの人の顔や景色を。「耳」は、皆さんの声、出会った人の話、鴨川や校庭から聞こえる鳥の囀り。そして皆さんや保護者の方、教職員、中学生、研修や講演で関わっていただいた多くの方々と言葉を交わした「口」。「鼻」と言えばやはり実習室の匂い、食堂の匂い、美術見学旅行の時の瀬戸内の海の匂いでしょうか。自分のカラダがよくはたらいた充実した一年でした。皆さんはどのようにカラダを動かしどんなことを得たでしょうか。せっかくの場面で意識を向けず、あるいは敬遠して、自身のカラダを使わず、逃したことはありませんか? かく言う私も、いくつか逃していたかもしれません。
ところで「目の見えない人」は「目の見える人」に比べて得るべき情報が限られ、学びや成長にとって「マイナス」を被っているのでしょうか。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗 著/光文社新書)という本を読むと、それは大きな間違いであると書かれていました。「目の見えないこと」と目の見える人が「目をつぶる」ことは同じではなく、「目の見えない人」は、視覚のないカラダできちんとバランスをとっているのだそうです。さらに言えば、「目の見える人」はある視点からものを見ているので必ず死角があるけれど、「目の見えない人」は「見るときに見えない場所が存在する」ということが成立しないので、ものごとの在り方を「どう見えるか」ではなく「それぞれの部分が客観的にどうなっているのか」という把握をするのだそうです。
私たちは、それぞれこの世に二人といない唯一の存在。カラダもすべて異なります。カラダの違いは、優劣でも有利不利でもない。それぞれのカラダを精一杯大切に使っているか、カラダのもつ力を十分生かしているか、また、それを磨き、鍛えてその力を伸ばしているか、ということが大事なのでしょう。そしてカラダの異なる自分と他者を認め合いながら共にものを考えたり、対話したり、サポートしたりできるのが学校であり社会であるはずです。昨年10月、京都大学の塩瀬隆之先生の講演で投げかけていただいたテーマ「『ために』から『ともに』へ」はまさにそのことを指しているのでしょう。
自分のカラダは、単なるパーツの合体したものではありません。つながってはたらく、かけがえのないものです。今年一年、あらためて自分のカラダをよく知りうまく付き合い、カラダの機能をトータルではたらかせて、好き嫌いをせずたくさんのこと、多様なことを吸収しましょう。
自分の限界なんて、頭の中で先に決めることではないのですから。
2018年1月9日 校長 吉田 功