すべては君の「知りたい」からはじまる
普通科・探究学科群(人間探究科・自然探究科)
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こんな話がある。
一羽のイスカ(スズメ科の小鳥)がトウヒ(マツ科の針葉樹)の木に止まり、種子をついばむ。そのトウヒの種子が様々な偶然を経て、川沿いの森に根づく。やがて一本の大木に成長する。成長したトウヒの側を流れる川は長い年月をかけて浸食し続け、森に近づく。やがてそのトウヒの大木が川岸に立つようになる。ある年の洪水で、ついにトウヒの木はユーコン川(アラスカにある川)に根こそぎ流される。流されたトウヒの大木は、そのまま旅を続ける。ついにはベーリング海に運ばれ、はるか遠い北のツンドラ地帯の海岸へとたどり着く。海岸に打ち上げられたトウヒの流木は、全く「木」というものの存在しないツンドラ世界では、特に目立った存在となる。その目立つ流木に、一匹のキツネがテリトリーを示す匂いをつける、マーキングをする。何度かマーキングを繰り返すうちに、冬のある日にキツネの足跡を追っていた一人のエスキモーが、そこにキツネを捕るためのワナを仕掛ける。トウヒの木は最終的にエスキモーの家の薪となり、煙突から大気の中にゆっくりとひろがってゆく。 アラスカ内陸部の森で育ち、大木に成長したトウヒはある一羽の鳥の口からこぼれた偶然で生命が始まった。キツネもトウヒにマーキングすることでエスキモーのワナにはまる。大自然の妙である。
この話は写真家の星野道夫氏が大好きだったアラスカの動物学の古典「Animals of North」(北国の動物たち)第一章のはじめにある「旅をする木」という話である。
星野道夫氏はアラスカの自然をこよなく愛し、自然の中で暮らし、自然を体験し、写真を撮り続けてきた人である。彼は1996年、42歳で、その大好きな自然の中(ロシア、カムチャッカ半島)、で大好きなヒグマに襲われて亡くなった。
トウヒの木は「木」としての役割を終えてからも、偶然が重なり、その存在は他の生物や生命に影響を与え続け、自然界に循環していく。さてトウヒの一生はいったいどこで終えているのか。星野氏もまた偶然が重なり、その日の、その場所の、その瞬間にヒグマに襲われたのである。星野氏の生きざまは「真に自然の中に存在」し得た自然物といえはしまいか。瞬間、瞬間が大切な「生」であり、「命」なのだ。今でも、星野氏の存在は多くの人に影響を与え続けている。
では、「死」とは一体何を指すのか。どこからどこまでが「生」で、どこで「死」になるのか。ということで「境界線」ということについて少し考えてみた。人間レベルで考えてみると、世間では未だに議論されるところであるが、「自然の中の存在」と考えてみると問題はあまりなさそうだ。解剖学者の養老孟司氏が指摘するように、「死」とは、自分自身で体験的に語ることができない「他人事」であることには間違いないのであるから、「死」というものは他者が決めざるを得ない。他者が決める以上、「客観的基準」または「社会的基準」が必要となる。体験的に語ることができないのであるから、「客観的基準」の存在は困難である。残る「社会的基準」が一定しないので困っているのだ。つまり「この人は死んでいるのだ」と全員が認めることの一致点が一定しないということである。そこで養老氏は、人間は「ことば」によって世界を分節したのであるから、「死」も「ことば」で分節するしかないと結論づける。感情を入れてしまうと「死」は揺れ動く。医療技術の発達はすばらしく、否定のしようもないが、境界線が厳密になればなるほど「分節」が「分節」でなくなってゆくことも、否定できない事実となっている。境界線が多すぎるのだ。境界線が作られるならその区分を示す「概念」の名称が必要となる。にも関わらずその名称が存在しない。存在しないから言葉で分節せよというのである。
先のトウヒの一生においても、一般的には大木に成長して川に流されるまでを一区切りとするのだろう。トウヒの一生は根こそぎ川に流された時点で終える。誰が認定するかといえば、それはその地域の住民たち、そしてトウヒの木に世話になっていた動物たちであろう。トウヒの存在が消えてしまったわけだから、それは「死」という意味合いを持ってくる。ところが、ツンドラ地域に流されてきたトウヒの存在を認めるエスキモーにとってはどうであろうか。トウヒという植物の「生」を感じはしないまでも、「木」としての存在は認める。トウヒは生きていないが、死んでもいないという曖昧な存在となる。そして、人によっても認識は違ってくるだろう。つまりそのトウヒの木を「死」と認める人もいるだろうということである。「生」か「死」か自体も曖昧だが、「生」と認識するか、「死」と認識するかも様々で曖昧なのである。我々の目の前に切り倒された一本の大木を見て、「まだ生きている」と認識するか、「もう死んでいる」と認識するかは人によって違う。木造建築物を見て、材料となっている「木」を「生きている」と認識する人もいるはずだ。そういう感覚だ。一定しない。
「生」と「死」の境界線の問題は今後も深まっていくと考えられるが、先の「トウヒの一生」や「人間の死」の認識で示したように、その境界線が実は曖昧なものであることも我々は自覚せねばならない事実である。
現代芸術の最先端で人気を博している森村泰昌氏は、古い時代では人間は「境界線」を引くことに専念して、様々な物事に区切りをつけてきたが、現代社会ではその「境界線」を消しにかかっていると指摘している。境界線の引き方に個人差があるため、常識とはかけ離れた行動を人間はとってしまうわけだが、現在の社会状況のまま、その境界線がなくなっていくと一体どうなっていくのか。境界線が融合されることで常識が常識でなくなってゆく社会が形成され、新たな問題をはらむ社会構造を生み出していくとも考えられるが、逆にダイバーシティ的価値観として、新たな可能性が生まれることへの期待の方が大きいのではないだろうか。
94歳のピアニスト ルース・スレンチェンスカ曰く、
「老いは、成長の始まりよ。」
学校長 谷内 秀一