すべては君の「知りたい」からはじまる
普通科・探究学科群(人間探究科・自然探究科)
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小さい時からちりめんじゃこが好きでよく食べていた。今もよく食べている。先日、ふと感じたのだが、以前食べていたちりめんじゃこと最近のそれとはかなり違っていることに気づいた。
子どものころ食べていたちりめんじゃこは、形が不揃いで、大き目なものから小さなものまでさまざまな大きさのじゃこたちだった。さらに赤い小エビが何匹か入っていた。子どものころ、食べるときには、大きなじゃこから小さなじゃこをお皿の上に大きさ順に並べながら、小さい方から順番に食べていた。変わった食べ方をしていた。これが好きだった。そして何よりもうれしかったのが、じゃこではなく、赤い小エビだった。たくさんのちりめんじゃこの中から赤い小さな小エビを見つけ出し、それもお皿の上に並べてから食べていた。赤い小エビを見つけた時のうれしさ、ボーナス感は何物にもたとえようのないものだった。今でも覚えている。
ところが、最近食べているちりめんじゃこは大きさがほぼ均等になっていて、さらに赤い小エビがほとんど見つけられないのだ。なんでだろうと考えてみたのだが、おそらく意図的にそうしているのではないかと考えた。他のさまざまな商品にしても、「不揃い」は敬遠されがちだ。形を整えてきれいに並べるものが、美しく良い印象を与える。確かに私たちはいつからか「不揃い」を敬遠するようになったようだ。なるほど少しずつ整えられた商品、整然とした見た目がよりよいものという価値観になっていたのだろう。だから、ちりめんじゃこを食べ続けてきたが、私も気がつかないうちにそういう価値観に慣れてしまっていたのだろう。
そんなことを考えていたある日、スーパーでちりめんじゃこを買おうと棚を探していたら、ちりめんじゃこがたくさん並べてある中に、量がそこそこありながらも他のものより安いちりめんじゃこがあった。お得やなぁ、なんでだろう、と思ってパッケージをよく見たら、「ワケありちりめんじゃこ」と書いてあった。ワケありって、ちりめんじゃこにワケありなんてあるのか、なんだろうと思ってよく見てみると、「不揃いちりめんじゃこ」だったのだ。大き目なものから小さなものまでバラバラだった。だからワケありで安くなっていたのだ。私はお得感よりも求めていたものが予期せず目の前に現れ、「これだ!」と思ってニンマリほくそ笑んだ。それは幼いころ食べていたちりめんじゃこだったからだ。すぐに2パック買い物カゴに入れた。
家に帰って昔のようにお皿の上に大きさ順に並べてみた。これがきれいに大きい方から小さい方にきれいに大きさ順に並べられるのだ。しかも赤い小エビも入っている。なんとちっちゃなタコちゃんとカワハギちゃんまで見つけた。「不揃い万歳!」幸せな夜だった。
それからしばらく経ったある日、ちりめんじゃこを買おうと棚を見ていると、びっくりするものがあった。それは「小エビ入りちりめんじゃこ」と書いてあり、見てみると形の整ったちりめんじゃこの中に、「入れました」と主張しているように「赤い小エビ」がまとまって入れられていた。じゃこと混ざっているのではなく、じゃこの中に小エビが注入されているというものだった。自然の流れだったものが、意図されたものに作り上げられていた。現代の商品であればそれは当たり前であり、当然の商品開発だ。なんの責められる点はない。が、ちりめんじゃこの歴史を体感した(自分ではそう思っている)私としては、違和感を覚えるのだ。それはちりめんじゃこを提供していただいている主体の責任ではなく、求める私たちのニーズに沿って、それは変化していったと思う。「きれい」「そろっている」「整えられている」「プラスのお得感」などによって商品は作られていったのだろう。ニーズに沿った商品開発は当たり前だ。興味はあったが、その時は買い物カゴには入れなかった。一度買ってみようとは思っている。
私たちの生きる社会は、いろんな人で構成されている。もちろん同じ目標達成のために集まったコミュニティはたくさんある。その中で一人ひとりの見方や考え方、価値観がその人数分だけ存在する。「ワケありじゃこ」状態だ。そこでお互いを認め合うことで、多様性のよさが表出してくる。大じゃこ、中じゃこ、小じゃこの主張、さらに小エビ、小タコや小カワハギの主張が化学反応をおこし、より良い方向性が見つかってくる。多様性にはイノベーションを引き起こすエネルギーが内在されていると思う。
私たちはふだんのコミュニケーションにおいても「不揃い」を避けているのではないかと思うことがある。特に、SNSなど通信機器を活用したネット上でのコミュニケーションだ。そこではさまざまなコミュニティが形成されていて、「同じ考え」「同じ趣味」「同じ思い」の人たちの集まりとなっている。通信機器でのコミュニケーションも大切ではあるが、よく考えてみるとネットを通じてのコミュニケーションは、「同じ」がベースとなっている人たちとだけつながろうとしている傾向があるのではないか。それはもしかしたら、違った意見を持つことで傷つくことを恐れているからではないか。多様性を認めよう、受け入れようとすることはもちろん大切であるものの、その前に、自分が「違う」ことや「できない」ことで傷つくことを恐れるのだ。他者を認めようとする前に、傷つくことを恐れる若者たち。ネット社会がこれからも大きく複雑に広がっていく中で、私たちはこれまでのフェイス・トゥ・フェイスを大切にしながら、ワケありじゃこ状態をキープしなければならないのではないだろうか。
学校長 谷内 秀一